ルーベンス「マリー・ド・メディシスの生涯」Vie de Marie de Médicis
ルーヴル美術館のリシュリュー翼3階に、「メディシスのギャラリー」とか「ルーベンスのホール」と呼ばれる大きな展示室があります。
この部屋を占めている絵画・全24枚は、「マリー・ド・メディシス」というフランス王妃の生涯をテーマに描かれた連作です。名画が多数所蔵されているルーヴルの中でも、ひときわ強い存在感を放つ作品群です。
描いたのは、17世紀を代表する画家「ルーベンス」。バロック最大の巨匠です。日本では、児童文学「フランダースの犬」で、亡くなる間際のネロ少年がようやく見ることができた、あの祭壇画(「キリスト昇架」「キリスト降架」)を描いた人物として、よく知られている画家です。
作品には王妃マリーの生涯で重要なシーンが描かれていて、全てを見るとマリーの半生を追うことができます。そのため盛り込まれている内容は非常に豊富です。王妃は神格化され、神話の神々や天使たちが登場し、壮麗な一大絵巻のようになっています。
神話的なモチーフ以外にも、作品中にはこの時代の絵画に特有のアレゴリー(寓意、象徴)が頻繁に登場します。それらの意味を知っているかどうかで、鑑賞したときの面白さに違いが出てきます。
王妃が辿った生涯(史実)と、絵画の中で暗示されている事柄について予習してから見ると、この作品の鑑賞はより楽しいものになるはずです。
マリー・ド・メディシスとはどんな人物だったのか
以下に、マリー・ド・メディシスの生涯をまとめましたが、その生涯において、王妃としての活躍や、国家・国民に対する功績はほとんどありません。幸福そうには見えない結婚生活、夫(アンリ4世)の暗殺、実の息子(ルイ13世)との争い、最期は国外に追放され、異国で亡くなるという人生です。
それにも関わらず、マリー・ド・メディシスの名が後世に残っているのはなぜか。
大きな理由のひとつに「本人が自らの人生をテーマにして、大きな作品を作らせてしまった」という点があります。決して、「偉大なお妃だったからルーベンスが絵画作品にした」わけではありません。どちらかといえば、イタい人として認識されている感があります。
ルーベンスが創りあげた華やかな世界感と、実際のマリーの生涯には大きな隔たりがあります。逆の見方をすれば、盛り上がりに欠ける王妃の生涯を、神話になぞらえ、立派な人生のように描き出したルーベンスの偉大さが際立ちます。
美化され尽くしたこの絵画を見る時、ルーベンスの神業としか言いようのない表現力に圧倒されるとともに、マリーの孤独がかえって強調される結果になってしまった気がしてなりません。
マリー・ド・メディシスの生涯
マリー・ド・メディシスは、1573年にイタリア・フィレンツェの名門「メディチ家」に生まれました。イタリア名は「Maria de’ Medici/マリア・デ・メディチ」と言います。
27歳になった1600年に、フランス国王アンリ4世のもとに嫁ぎます。当時としては、かなりの晩婚でした。翌年、のちのルイ13世となる王太子を出産します。
1610年、夫であるアンリ4世が暗殺されると、幼い息子ルイ13世が即位します。マリーは摂政として、フランスの政治を担いますが、政治的に支持されず、貴族や成長した息子ルイ13世から不信を買うようになります。1617年にはルイ13世にブロワ城幽閉を命じられてしまいました。
2年後にブロワ城から脱出、その後ルイ13世と和解するものの、1631年にはフランスを追放され、ブリュッセルに亡命。1642年、ケルンで亡くなっています。
夫・アンリ4世は、その政策によって国民からは人気がありましたが、無類の女性好きとしても知られており、生涯に何十人もの愛人がいました。マリーとの結婚は前妻と離婚が成立した3ヶ月後のことで、裕福なメディチ家からの持参金目当ての政略結婚でした。マリーの方もまた、王族との婚姻を希望していたため、それまでの縁談がなかなかまとまらず、婚期が遅くなったようです。
そのような事情で結婚していることもあり、夫婦の間に愛情は育たず、また、当初フランス語がよく出来なかったマリーは、フランスでの生活で孤独を募らせていきました。結婚して10年後に夫が暗殺されると、マリーはあまり気に入っていなかったルーヴル宮を出て、リュクサンブール公爵の邸宅に移ります。故郷フィレンツェのピッティ宮殿をお手本に改築したその建物が「リュクサンブール宮殿」です。パリで最も美しい公園と言われるリュクサンブール公園と同宮殿は、マリー・ド・メディシスが住んだお城だったのです。
現在ルーヴル美術館に展示されているこの連作「マリー・ド・メディシスの生涯」は、もともとはリュクサンブール宮殿内に展示する目的で、マリー本人がルーベンスに発注したものでした。(1621年〜1625年:製作、1693年:ルイ14世のコレクションを経て、1816年:最終的にルーヴルに移管。)
ルーベンスのホールの様子
マリー・ド・メディシスは、1573年に生まれました。ルーベンスがこの作品を描いたのは、1621年〜1625年頃。マリー・ド・メディシス国外追放が1631年、亡くなるのが1642年です。
マリーがルーベンスに発注したのは、ブロワ城から脱出してルイ13世と和解した頃です。従って、タイトルは「マリー・ド・メディシスの生涯」ですが、その後の出来事は描かれていないということになります。生誕から始まり、結婚、出産、統治を中心に構成されています。
和解の後にあるのは国外追放なので、結果的に、この時点で発注して良かったのかもしれません。
左の図は、展示室内の配置を表したものです。便宜上、ここでは作品に1から24までの数字を振りました。
メディシスギャラリーから他の部屋へと続く出入口は2カ所あります。この図で言うと、上に位置する22〜24番付近の出入り口と、下に位置する11番付近の出入り口です。
11番の方ではなく、22〜24番の絵がある出入口の方(つまりこの図で1番の作品)から鑑賞をスタートすると、マリーが生まれるところから順番に見られます。
24枚の作品のうち、No.22、23、24 は、生涯の出来事ではなく肖像画です。それぞれマリーのお母さん、マリー本人、マリーのお父さんが描かれています。
24枚の中で、代表的な場面としてよく紹介されるのは、No.6の王妃が花嫁としてマルセイユ港に到着する場面と、 No.10の王妃の戴冠式の場面です。
「マリー・ド・メディシスの生涯」全作品
「マリー・ド・メディシスの生涯 / Vie de Marie de Médicis」ルーベンス作
1621-1625年頃 <リシュリュー翼・3階>
下にリンクした作品は上の配置図に対応して、1から24の番号を振っています。小さな画像か、フランス語のタイトル部分をクリックすると、拡大画像が別ウインドウで開きます。画像はそれぞれ私が撮影してきた写真なので、あまり上手には写ってないです(すみません!)。鑑賞には向きませんが、資料として確認程度にご覧ください。
タイトルは、展示室で作品の下に表示されていたものです。やたらに長い場合は、状況説明的な「言い換え」や「別名」であることが多いです。タイトルの後に続く、定冠詞や数字、月名(例:2番のタイトルであれば、最後の「 le 26 avril 1573」)は、その出来事が起こった実際の日付です。
(1)
1枚目は、出生前の天界の様子から始まります。マリーが生まれる前、神様たちがこの娘はどんな運命にしましょうか、と相談している場面です。画面の上の方で寄り添っているのは、神話の中で最高神とされるユピテルと妻のユノー。その下で「Les Parques」という生死を司る三人の女神たちが、運命の糸を紡いでいます。
(2)
La Naissance de la reine à Florence le 26 avril 1573
1573年、フィレンツェにてマリー誕生。名門メディチ家のお嬢様です。マリーは光り輝き、故郷フィレンツェを表す擬人像が手を差し伸べています。
(3)
L’Instruction de la reine, dit aussi L’Education de la reine
王妃の教育の場面。マリーが本を覗き込んでいます。本を開いているのは、知恵の女神ミネルヴァです。脇には三人の女神がいて美を授けています。床には画材や楽器があり、芸術科目も教育に含まれていたことが伺えます。頭上にいる翼のついた帽子をかぶっているのは、メルクリウス(商業の神・旅人の神)です。
(4)
Henri IV reçoit le portrait de la reine et se laisse désarmer par l’amour
天使が抱えたマリーの肖像画をアンリ4世が受け取る場面。肖像画は、今で言うならお見合い写真に相当します。頭上で見守っているのは、ユピテルとユノー。各々の両脇には、鷲と孔雀が描かれています。ユピテルは鷲を従えた姿で、ユノーは孔雀と共に描かることが多いです。このことから「一緒に孔雀が描いてあるということは、この女神はユノーかな。」と推測できます。
アンリ4世は、マリーの肖像画に見とれているような表情で描かれています。しかし、この結婚は政略的な性質の強いもので、アンリ4世がマリーを見初めたわけではありませんでした。実際、マリーと結婚した時にもアンリ4世にはお気に入りの愛人がいて、新婦マリーにはほとんど興味を示さなかったそうです。
(5)
結婚式で指輪を着けてもらうマリー。1600年10月、場所はフィレンツェにて。「 par procuration /代理人を立てて」とあるように、結婚式にはアンリ4世は多忙のために来られず、マリーの叔父さんが新郎の代理を行いました。そんなことでいいの? 花嫁としては先行き不安では? と思いますが、そんなものだったようです。
(6)
Le Débarquement de la reine à Marseille, le 3 novembre 1600
王妃マルセイユに上陸。この絵は24枚の中でも特に有名な作品です。イタリアからやってきた花嫁は、とても堂々としています。神や天使に祝福され、場面はとても賑やかで華やいでいます。両手を開げて迎えている青いマントを着けた人物は、国家としてのフランスを象徴的に人物像で表したもの。マントの模様は王家の紋章(fleur-de-lis)です。マリーの頭上で到着のラッパを吹いているのは、名声を擬人化した像です。
(7)
L’Arrivée de la reine à Lyon, ou La Rencontre du roi et de la reine, le 9 décembre 1600
王妃がリヨンに到着し、王と対面します。アンリ4世は結婚式に出席しなかったので、二人はここで初めて出会います。ルーベンスは、アンリ4世をユピテルに、マリーをその妻ユノーになぞらえて描きました。ユピテルが最高神であることからそう描いたのでしょうが、神話の中でユピテルは多情の神(簡単に言えば、浮気もの、プレイボーイ)としても有名です。この点でもアンリ4世の実際と重なるのは、単なる偶然だったのでしょうか。
画面下には、町としてのリヨンを象徴的に表現した人物が凱旋車に乗って二人を見上げています。車を引くのは2頭のライオン。このライオンもまた、町の名称「Lyon」にちなんだものです。
(8)
La Naissance du dauphin(futur Louis XIII) à Fontainebleau, le 27 septembre 1601
王太子(のちのルイ13世)誕生、フォンテーヌブローにて。
「生まれた〜!」というホッとして穏やかなマリーの表情に注目。スリッパも半分脱いで、かなりリラックスしている様子です。王太子は健康を象徴する擬人像に抱かれています。多産の擬人像が、子供と花で満たされたカゴをマリーに差し出しています。
(9)
Préparatifs du roi pour la guerre d’Allemagne ou La Remise de la régence à la reine, le 20 mars 1610
ドイツとの戦争の準備。青地に金百合の珠を二人で手にしています。二人の間にいる、マリーと手をつないだ少年は、王太子である幼き日のルイ13世です。
(10)
Le Couronnement de la reine à l’abbaye de Saint-Denis, le 13 mai 1610
王妃の戴冠式。サン・ドニの大聖堂にて。アンリ4世のドイツ遠征を前に、マリーは国内の統治を任されます。天使たちが祝福の金のコインを降らせています。
「戴冠式」と聞くと、ダヴィッド作の「ナポレオン一世の戴冠式」(1806年)を連想します。構図も雰囲気も似ています。ルーベンスのこの作品から影響を受けていたことが伺えます。
(11)
L’Apothéose d’Henri IV et la proclamation de la régence de la reine, le 14 mai 1610
「アンリ4世の神格化とマリー・ド・メディシスの摂政宣言」という邦題で、この作品も有名です。簡単に言うと「アンリ4世は亡くなって、マリーが政治を摂ることにしたよ」という場面。画面の左半分には天界に連れて行かれるアンリ4世が描かれています。暗殺だったせいか、無理矢理 天に連れて行かれて不本意っぽい表情です。地面で槍を刺されて苦しむ蛇は、暗殺者を象徴しています。
日付をよく見ると、No.10の戴冠式の翌日の出来事であることが分かります。王の暗殺により即位したルイ13世は、この時点で9歳だったため、マリーが摂政となりました。絵の右半分には、マリーが喪服姿で玉座に座っています。ここでも人物として表現された国家フランスが登場し、マリーに世界を表す水晶玉のようなもの(統治の球)を差し出しています。「フランス」がマリーの手に渡った瞬間です。
(12)
フランスとスペインの同盟のための神々の会議。神によって選ばれたフランスの統治者というマリーの役割を表現するため、神々と協議するマリーの姿が描かれました。
タイトル通り神様総出演です。作品の下に書かれた解説には、あらゆる神様の名前が挙がっていました。ユピテルとユノー、アポロン、ミネルヴァ、ヴィーナス、マルス、フリアイなど。画面左側、ユピテルと思われる神様を中心に何人かが集まって、世界を表す大きな玉を囲んでいます。そこには2羽の鳩がとまっていて、フランスとスペインの婚姻による協力を象徴的に表しています。
(13)
ユリエール(ジュリエール)の占領。 遠景に広がっているのは降伏したドイツの町「Juliers/Jülich」。オーストリアに占有されていた町を征服しました。マリーは立派な兜をかぶり、手にはバトンを持ち、勝利の女神から冠を授かろうとしています。その横でラッパを吹いて勝利を伝えているのは、ローマ神「ファーマ」。名声の神様です。地上には、ライオンを従えた高邁の神が、マリーに付き添っています。ライオンは図像解釈上、寛大で情け深く、勇気に満ちているとされています。
(14)
L’Echange des deux princesses de France et d’Espagne
sur la Bidassoa à Hendaye, le 9 novembre 1615
フランスとスペインの王女たちの交換。1615年、ルイ13世はスペイン王女のアンヌ・ドートリッシュを妻に迎えます。フランスからは、フェリペ4世(アンヌの弟で後のスペイン国王)のもとに、マリーの娘のエリザベートが嫁いでいきました。右側の、金百合模様の青いマントを着けている人物は、何度も出て来ていますが、フランスの擬人像。反対側のライオンのついた兜を着けている人物は、スペインの擬人像です。
(15)
摂政政治の至福。元帥コンチーニ殺害後には、ブロワ城へ連れて行かれることになるマリーですが、この作品でルーベンスは輝かしい摂政時代のマリーを描きました。左手は世界を表す球体に手を乗せて、右手は公正や正義のアレゴリーである天秤を掲げています。
(16)
La Majorité de Louis XIII.
La reine remet les affaires au roi, le 20 octobre 1614
ルイ13世の成年。当時の基準でルイ13世が成人と認められる年齢に達し、親政(自分で政治を行うこと)を始めると、母子で対立するようになります。ルイ13世の頭には冠が置かれ、国政を表す船の舵を引き継いだことを表します。船を漕ぐのは、それぞれ「Force/力」「 Religion/宗教」「 Justice/正義」「 Cncorde/和平」です。手に球体を掲げたフランスの擬人像が堂々とした姿で描かれています。
(17)
La Reine s’enfuit du château de Blois dans la nuit du 21 au 22 février 1619
ブロワ城からの脱出。息子によって2年間幽閉されていたブロワ城から逃げます。王妃の半生を描くにあたって、この件は扱いが難しいテーマだったはずです。画面全体が暗くて重く、緊迫感が漂っていますが、遠景には夜明けの景色も見えています。勇気と賢明さを表すミネルヴァがマリーを助け、高官たちがアングレームまでお供します。
(18)
アングレームの条約。ルイ13世に和解の提案が受け入れられ、玉座に座るマリー。メルクリウスが平和の印であるオリーブの小枝を差し出しています。旅人や商業の神様「メルクリウス」は、翼のついた帽子と靴を身に着け、魔法の杖(2匹の蛇が巻き付き、先端に翼が付いている)を持った姿で描かれます。この場面では、メルクリウスの姿でオリーブを差し出しているのはルイ13世である、との見方もあるようです。マリーの横には二人の枢機卿がいて、それぞれに何やらマリーに助言しています。
(19)
La Conclusion de la paix, à Angers, le 10 août 1620
アンジェの平和の結論。メルクリウスに導かれ、平和の聖堂に到着したマリー。白い服の平和の女神は、要らなくなった武器を燃やしています。その横で、ボルゲーゼの剣闘士のようなポーズで、「悪徳」が怒り狂っています。
(20)
1621年12月15日の元帥リュイネの死後、王妃と息子の完全なる和解。マリーは右手にメルクリウスの魔法の杖(平和の象徴)を手にし、まるで神のように描かれたルイ13世とともに、雲の切れ間の方へ上がって行きます。正義の擬人像は、雷で狙いを定めてヒュドラ(亡くなった寵臣リュイネの象徴)を打とうとしています。
(21)
Le triomphe de la vérité ou La parfait et sincére union de la reine-mére et de son fils
真理の勝利。画面の上の方でマリーとルイ13世が向き合っています。母と息子の会談に出席させるために、時の擬人像が真理の擬人像を引き上げようとしています。
(22)
Jeanne d’Autriche 1547-1578
Grande Duchesse de Toscane mére de Marie de Médicis
「Duchesse」とは公爵夫人の意味。トスカーナ大公夫人で、マリー・ド・メディシスの母の肖像画。
(23)
Marie de Médicis en reine triomphante
戦争の女神「 ベローナ」に扮したのマリー・ド・メディシスの肖像。
(24)
François 1er de Médicis(1547-1587)
Grand Duc de toscane, pére de Marie de Médicis et fils de Côme 1er
「Duc」とは公爵の意味。トスカーナ大公で、マリー・ド・メディシスの父、コジモ一世の息子の肖像画
<参考文献>
岩波「世界の美術 リュベンス」クリスティン・ローゼ・ベルキン著 2003年6月発行
中央公論社「ルーヴル美術館の絵画」ローレンス・ゴウイング著 1992年1月発行